*** 東欧旅行記3 ***

6/11Thu(火)
 むちゃ、ゆっくりしたので、元気回復オロナミンC。ちょっとその辺をぶらつきます。
 朝から風呂に入って。朝食込みなので嬉しい。買い物はアクセサリーをした。末ちゃんにブレスレット。ONTのオフィースまで歩いて行って、ツアーを聞いてみるが、無いという。マラムレシュ迄ならTrainがあると。知ってるよ。だけど大変だから聞いてんでしょうが。ラプソディーシアトルもクローズしているのだとのこと。気の毒そうにしていた。ま、もう一度部屋に帰って考えよう。
 あと百貨店も見て回ったが、ブルガリアよりも品揃えがある様。びっくりしました。
 お水(ガス入りしかない)を買い、ハイネケンの大きなボトルを買って部屋に帰り、風呂に入ってから、飲みながら、ガイドブックを見る。夜、おこわごはん。やはり、マラムレシュに行こう。

6/12(水)
 今朝でチェックアウトしたいと言っておいたが、結局、3泊したことになった。それでも、今夜お風呂に入れないので、19:00にチェックアウトすれば、入ってから行けるし、11Hの旅だから、ま、いっか!
 土曜日までバゲージを預かってもらえるようになったし、ま、いっか。
 朝ごはんを9:00に食べて、パッケージも済ませ、バゲージを部屋に置いて、まず、 農村博物館 へ。大通りへ出て、TAXIを拾い、とても良い青年。
 農村博物館はとても良かった。ビデオで見ましょう。
 帰りは歩いて、メトロ駅へ行き、切符を買って、1駅目のビクトリア駅で乗り換えて、 ガラ・デ・ノルド へ。立派。CFRで バイアマーレ 駅の切符を買おうとして、ちょっとウロウロ。Classaという窓口で、スリーピングカーは9だと言われ、9の太ったおばさんは、スリーピングカー付きはバイアマール行きには無いと言い、6へ行けと言う。
 そこで結局、1クラスの切符を手に入れて、横を向くと、男女二人ずれの日本人らしき人が・・・。
 あのー、で、日本人ですか、から始まり、珍道中の開始です。一緒にバイアマーレまで行く事になりました。M.MさんとY.Mちゃんです。エジプト・トルコを回って入ったそうです。
 3人で ルーマニアコレクションMUSEM を探して、見学。どういう基準で展示してあるのか少し不可解なほど、各国入り乱れ状態で頭がこんがらがります。

 のどがからからで、歩きながらカフェーなど探すけど、これがない。とうとうコンチネンタル迄歩き続けて部屋に転がる様に入って、ビールとスブライトなどがぶ飲み。身体から水分が蒸発していく!とわかるのです。
 お風呂に入って、チェックアウトし、いよいよ マラムシュ地方 バイアマーレ へ出発。11Hの旅です。彼らも荷物をとってコンパートメントへ乗り込むと、何と6人掛けの6人ぎっしりで、夜は寝れる状態でなさそう。向こうのルーマニア人(?)も、”no good”など言ってる様子。
 動き出してから見に行くと、がらがらの部屋もあり、そっちへ移ることにした。3人で「ワーイ」と喜んで、すっかりシートもベット状態にし、ルンルンしている次の駅で、「I’m sorry」とおじさんおばさんがやってきて、私たちが「ごめんなさい」と言って、又、あの3人組の所へ戻ったのです。
 その一夜は本っとに、きゅうくつ千万でしたが、おもしろかった。私の前のでっかいおじさんは、ベットにしようと切り出せず、落ち着かない様子で、私は「いやよ」と思っていたけど、あんまり気の毒なので、許してあげることにし、シートを引いて、「Please」と言ってあげたら、一度目は「いやいや」などと、かわいらしくしていたけど、「いいよ、いいよ」とすすめると、思いっきり横になって、そく眠りだし、いびきをかいてしまいました。

6/13(木)
 朝5:30になったら、さっさと起き出す勝手な奴。ほんまに、Yもほとんど眠れなかった様子。可哀想に。
 さて、8:30を過ぎて、 バイアマーレ に着き、シゲット行きのバスの時間と帰りの汽車の時間を確認。バスは11:30があるとのことで、とりあえず食事に。スープとパンにしたが油っぽくなくて。とてもおいしかった。
 ジプシーの男の子が一人ウロウロと寄って来る。顔に大きな傷跡。とても切なくなる。お願いだからこっちへ来ないで。悪いことをしている気持ちになります。
 この食事2800レイというのは約84円、か・・・。エクスチェンジが無くて、二人がだいぶ歩いてくれた。向こうへ見に行くというのを私が隣のテーブルにいた男性に聞くと、ここにはない、セントルだというので、二人を呼ぶと、その人は二人を連れて、バスに乗り、チェンジ後、元の場所行きのバスに乗せて、自分は仕事に行ったとのこと。すばらしい!
 無事私たちはバスに乗り、2Hの道をうねうね。二人は英語でしゃべりまくるシゲットの少年?につかまり、ずーっと話していた。私は隣の男の子が話かけてきても、わからないと首を振って、すぐ寝た。
 シゲットまでの眺望はすばらしかった。二人はまだつかまっている。
 駅前でTAXIを掴まえ、この街一番のホテルティサに投宿。1泊55300レイというから、18ドル弱のバルコニー付きのすばらしい部屋で、とてもきれいで清潔。とにかく荷物を置き、TAXIを掴まえ、 サプンツア村 へ。
 道が悪い。それでも、私は又ねようとしている。
 ひなびた、嬉しくなるような村に着くと、教会の方へ折れ、教会前にいたおじさんやおばさんが、来た来たという感じで、笑いながら話している。
 入場料、ビデオ代までとられましたぞ。
 さんざん遊ぶ。編み物上手だったお母さん、働き者だったお父さん、野良仕事を良くしたよ、料理がとっても上手だった。3人の子供と仲良く暮らした。消防士だった人、炭鉱、警察、書記、坊さん、裁判官、一目で生前の職業や暮らしぶりがわかる、絵入りのお墓
 何ともユニカで興味深い。世にも珍しい場所。中には、まだ小さな女の子が交通事故で死んだとか、若者が電車にはねられた、二人の子供のお母さんが、工場の火事で、亡くなったとか悲しい様子もありました。
 3人でこれでいいねと話しながら外に出ると、IeCreamがおいしい。これが又濃い。おばあさんのお手伝いをしていた地元の少女にも買ってあげたら、とても嬉しそうにしていた。
 アイスを食べ、土産物を見て、ぶらぶらと田舎道を歩いて変える方向に行ってると、ミニバスからちょうど人が降りるところで、シゲットまで一人40円ぐらい。荷物入れのような窓もない堅いシートの上でゆれること30分、酔いそうだった。

 ホテルまで10分ぐらい歩くところで降ろされ、道々、ハムを買ったり、野菜を買ったり、今夜の宴会の準備。とにかく日本人は見せ物です。
 部屋に帰り、風呂を浴び、一眠りして、ご飯を炊きかけると、ヤスミンがミネラルウォーターなど買いに行ってくることに。ノンガスがあったらよいが。
 待つこと1Hあまり、帰ってこない。ご飯も炊けましたが、どうしたんだろうと、少し心配で、バルコニーに出てみる。二人で行ったのかなあ。
 するとノックがして、やはりジプシーの子供につかまり、両手を一人づつに押さえられ、3人目が袋をかぶせ、何が起きたのかわからない内にウエストポーチをとられてしまった、とのこと。両腕にひっかき傷を創っていた。可愛そうに! 何て事をするのだろうか。3人共怒りで、折角楽しみにして来たこの村に失望していた。
 気を取り直し、ソーセージ、ハム、ジャガイモのゆでたの、キャベツとキュウリの塩もみ、トマトの輪切りと、固くておいしいパン、そして、何よりおすしだぜ!
 その上におこげと梅干しの海苔巻きおにぎりとみそ汁と来ると、日本人3人ルーマニアのウクライナ国境の近くで、生まれてこの方初めて会ったお互い同志が、ここでこうして日本食をほうばり乍ら、夜を共にする不思議を思った。
 ビールを飲みながら12時頃までわいわい。ブカレストの駅で声をかけ合い、心が投合しなければ、今は無い。どんな巡り合わせだろうかと。日本に帰っても絶対会おうということに。お互いが喜び合える出会いは、そう、ざらにない。
 部屋に帰るとき、マーシーが、この窓、このカーテン、この風、まさに、ドラキュラの世界ですねと言い残す。おどかしているな。こわくは無いわい。


6/14(金)
 私達はとにかく テイサ川 まで言ったら、もうこの村を出て、さっさと ブラショフ に行こうと言うことに昨夜なっていて、朝食を食べに下へ降りると、ロビーの天井から水が滴り落ちている。朝早く二人の部屋に「プロブレムな事が起きた」と訪ねてきて、部屋を見、「ちゃうなあ」と出ていったとのこと。大変です。
 食事をしているとジプシーの女の子が入ってきて、物乞いをする。手にキスしたり、「ママが病気なの」と言ったり、とても悲しそうにしている。私達も悲しい。何もあげられない。何もしてやれない。こんなところでぬくぬくと飯を食ってる自分、旅行を続けている自分に怒りや、懐疑や、がごちゃまぜに悲しい。
 この村に来る時、 バイヤマーレ の駅前で食事をしたが、あの素足の顔に大きな傷跡のある少年に、私は食べ残しのパン2つにソーセージをはさんで、あげました。チェンジに行った二人の残したごはんや(おかゆ状)、肉をくれと言ってきたのです。すごく迷ったけど、これは捨てられるであろうもの。でも、その捨てられるであろうものを他人にあげてよいのか。胸が引きちぎられそうでしたが、そんなことはきれい事に過ぎないと、自分に言い聞かせ、黙って、思い切って、そのサンドイッチを作って、あげました。
 周りでは、きっと、現地の人々のいろいろな思いがあったと思います。そんな事をするから、ジプシーがこのあたりから去らないんだ、など・・・。きっと、迷惑な事だと思う。
  ブルガリア の カルロボ でもホテルの隣のショップで陶器を見ていると、入り口に、ぼろぼろのおばさんがやってきて、美人のとても良い人の店員さんは、大きな声で激しくののしりながら、お財布から小銭を出して、やっていました。彼女もきっと、とても切ないのだろうと思う。いつも、あのおばさんは来てるみたいです。その度に、彼女は怒りながら、けど、あげずにいられないのでしょう。でも、その自分に人は哀しいのです。


 ホテルを一歩出ると、昨日とうって変わって、街はとても賑やか。どうやらがたってるみたいで、私はルーマニアといういでたちの人達がぞろぞろ歩いている。もう3人とも興奮状態で、ビデオ撮りまくりーの、カメラ向けまくりーの。
 人々はカメラ自体が珍しく、ビデオは殆ど知らない。ビデオを向けると、立ち止まって顔をくっとしめ、ポーズを作る。あげくに、それを送ってくれ、と住所をくれたおばちゃんがいました。2人もあっちこっちでつかまって、アドレス交換していたようです。
 3人共、昨夜の心はすっかり晴れ、もう喜びぬいて、ウハウハと息する犬の様に市場の中をうろうろ。やっと、外へ出て、昼御飯を教会の前の広場で食べようとしましたが、ここでも、若い人達に囲まれ、写真を取り合って、アドレス交換。
 私は少し疲れたので、ベンチで寝ころんで、青空をみていると、気をつかったのか、グループのだいぶ若い男の子が写真を撮ってくれました。ありがとう。今日は彼らの仲間の誰かが結婚式を挙げたのですって。昨夜作ったサンドイッチは腐っていました。でも、ハムや野菜のついていない上の皮はとてもおいしかった。のどをうるおし、そして、ティサ河へ行ったのです。
 30分近く走って着いた ティサ村 、 ティサ河 はとても感慨深いものがあった。来たなーと3人で、ウクライナ側の山々を見ながら嘆息。木の間隠れに車はばんばん走っている。花を摘んだり、石を拾ったりしていると、マーシーが「こうなると向こう側に興味が湧きますねえ」とぬかす。雨もパラついて来たし、さあ、気にせず、かえろかえろ。あんたの好きなブラショフ行くで。
 シゲットの駅の帰り、丁度14:00?30のバスに間に合ったので乗る。18:20ぐらいの汽車だと言っていたので、本当に具合がよい。隣に座った14才くらいの少女が、窓側に変わってくれようとしたが、「良い良い」と言って、そのままで行った。気を使って、暑いのに、カーテンを見やすく押さえてくれる。紙風船をあげたら、嬉しそうにしていた。しつけの良い感じの良い子供でした。後ろに友達がいたようで突っつかれていた。少し話をして写真を撮り、住所交換。忘れず送らねば。
 3H後ブカレスト行きの切符を買い、ほっとしてバイアマーレの駅中でマーシーが買ってきてくれたパンにニンニクいっぱい付いた肉ロールの焼いたのを「おいしい!」と涙をこぼしながら食べた。周りの人達はしげしげと3人を見ている。おこげ入り梅干し海苔巻きおにぎりを2人は喜んで食べていました。あんまりおいしかったので、もう一度肉ロールを買いに行った。

 コンパートメントに入ると、2人の男性の老人と、若い女性がいた。最初はちょっとなじみにくそうでしたが、だんだん互いに打ち解け、色々な話をした。女性はアディナと言って、マラムシュに住む主婦のようだった。

 ニクは76才、元軍人、スペイン戦争などに参加、ハードな人生だったようだ。ギョルギョは84才、シンガポールに1942に行っていて、日本人がたくさん人を殺したと言った。そうです・・・。本当にひどい事をしました。
自分は日本女性と結婚したかった。あんたと結婚して東京に住みたいと、のたまうので、「主人と子供が大阪で待っている」と言うと、「じゃ誰でも良いから日本ガールと結婚して東京で住みたい」と仰る。夢があって良いなあ。84才だよ。まだまだ枯れてないね。見習わなくっちゃ。

 そのギョルギョが私の履き替えた草履を見て、それはいくら位するかと聞くので、思わず正直に「3000円」と言った。ルーマニアのレバにしていくらかと言うので、2人に「正直に換えて言うと大変な額だよね。どういおうか」と相談していると、「3000円はドルにチェンジしてどうなる」と聞いてきた。
観念して「30ドル位」と答えると、ルーマニア人3人の頭の中で素早くレバにチェンジされたのだろう、コンパートメント内は異常な沈黙を持った。
 10万500レバと言えば確かにルーマニアの人にとってみればすごい金額(昨夜のホテルはシゲット1番のホテルで1人5万3000レバ。この汽車は一等で、ブカレストまで1万レバ位)かもしれないけど、私達にとっては日本ではこの人達が買う日用品感覚なのだから・・・。

 ギョルギョは余程こたえたのか、ずっと、ぞうりを見ていた。ぼろぼろで、何度海外旅行に持っていったかわからない薄汚れた状態の、こいつのどこが10万5000レバもするのか。日本人はクレージーだと思っているのかもしれない。

  クラムシュ 出身のアディナはルーマニア後を英語へバイリンガルで、ヤスミンは英語を日本語へバイリンガル。車内は色々盛りだくさん。ギョルギョの日本ガールから私の娘が24才になると言うと、ニクが「それじゃYouはいったいいくつだ?」とびっくりして聞くので「47才」というと仰天、「25才くらいだと思った」。言い過ぎやで。でも、ありがとう。
私の父が72才だというと、「とんでもないことだ」と大笑いでした。

 彼は黒海沿岸の街の歴史か何かを書いているそうです。私達3人は今夜を記念して、日本の歌を歌うことにしました。「ジャパニーズカントリーフラワー、さくらさくら」まず3人でスタンダードに一度歌い、2度目をマーシーがメロディー、私がアルト、ヤスミンが琴の演奏を口三味線で、練習もしていないのに、息ぴったりで、とても喜んでくれました。マーシーのビデオが液晶なので、撮してから見せると、びっくりしながらも、めちゃ喜んで、ギョルギョはトイレに行く途中、そこらのコンパートメントや通路の人に、「日本人はええ奴やで」と言い回っていたみたいです。
 ギョルギョは大きな駅に着くと、何やら買ってきて(カステラみたいなのでクルミが入ってて、すごいおいしかった)、皆に切り分けてくれました。車内をベットにしてねたけど、寒いし、私の持っていた毛布3枚分を出して、風邪気味のヤスミンとアディナとかけたけど、ギョルギョやニクには行かないので、ギョルギョにタオルをかけ、ニクにはホカロンをあげた。この車内は本当に寒かった。
 列車が駅に着く度、ニクが駅名を確かめてくれている。私も4:00着ブラショフというのが、どうも遅すぎると思っていたので、ほとんど寝ずに駅を気にしていた。

 ある大きな駅に3時頃着き、ブラショフじゃないかなあ・・・と思っていたが、ニクも何も言わない。すると、ギョルギョが私に「ノーブラショフ?」と聞く。「え?ブラショフ?イエス!ブラショフ、ウイアー、イエス!」と分けの分からないことを口走って、3人で大慌てで必死におりました。
 これでわかっていなければ、次はブカレストです。名残を惜しむ間もあらばこそ、私は靴のひもも結ばず、窓から、アディナがさよならをしてくれました。
とりあえず、駅の構内がぬくいだろうと、降りると意外に人が多く、ちょっと安心。
しかし、ジプシーの何と多いことか。
 寒いし、座りたいので、レストランと書いてあるところに上がっていくと、何とそこはビンゴゲームの賭博場。断られたが、何とも哀れに思ったのか、マネージャーらしき人が席を作ってくれた。

 かくして、真夜中3:30、異国の賭博場で、延々と続くビンゴゲームをまことに不思議なる思いで眺めました。ヤスミンが「世にも不思議な物語りの話をするので、余計でした」
 どろどろと濃いコーヒーを飲み干し、目の前で、1000,200と立て続けにすってゆく人を見、もうもうと立つ煙草の煙に、へき易して、場所を変えることにしたが、下のレストランは座る所がなく、やむなく駅の構内で野宿状態。普通の人もたくさんいるけど、ジプシーもいっぱい。少し神経質になっているので疲れる。日本人が珍しいのだろう。脇ばによって来て色々言う。ヤスミンに笑っちゃだめと言う。

6/15(土)
 ヤスミンもとても良い人で「吃」とできないのだけれど、つけ込まれるととても危ないから心を鬼にするのだ。「毛布3枚分」を広げて2人で寒さをよけていると、皆で、見に来る。
 一人「私にくれ、金を払う」というおばさんが来たが「私達はこれが要るの」と断った。しばらくして又来るので、とても強く「NO!」と言うと二度と来ない。2Fでギタリストがギターを奏で、歌を歌い出し、しばらく続く。エコーが利いて良い。
ビデオもカメラも危なくて出せない。残念。
 しらしらと夜が明け、6:00になったので、TAXIで移動。ホテルアローパレスの裏手にある「アロースポルト」というホテルに彼らが宿を取ったので、私もとりあえず、昼12:00のチェックアウトまでとる。53000。熱いお風呂とベットて2Hほど仮眠。
 私は洗濯とビデオの充電もした。
 9:45にヤスミンが来て、10:15出発という事に。私はチェックアウトし、2人の部屋に荷物を置かせてもらって、 プラン城 をめ指す。TAXIで30分程かかった。とてもおもしろいお城。迷路のよう。2人と途中で別々になったけど、いつかは会うでしょう。
窓が多い。子供もいっぱい。悪ガキ達と少し遊ぶ。
ドラド伯 という人は頭の良い人だったんだなあーとか思いながら、外に出たけど、2人はまだなので、前に少し高いところに上がる道があったので、そこで待つことに。

 私がその道を歩いていると、後ろから少女2人がついてくる。何もないよ。ここは。
私は石を拾おうかなーと思ってるだけなんだから。やっぱりすぐ下りて行きました。

 肌寒いのでトイレに行きたいなと思ったけど、あたりに無いし・・・。緑の繁みがいーぱい・・・。せいせいして、又、城を見下ろす所に帰るとヤスミンがいるいる。「おーい、Hello−」とか言うと「おーいって言ってるよ」。「ここ、ここ、カメラアングルいいよー」と叫ぶ。

 二人が上がってくる間に、花を摘み、真剣に石を捜して、はっと横を見ると、マーシーがじっとかがんで、こっちを見てる。「あーびっくりした」。「驚かそうと思ったけど、そっちが崖だったから、やばいとか思って」。こいつには城の中でも一度おどかされたんだ、くそ。

 今夜はここで泊まりたい、などと、ほざくマーシーを引っ張って下城。笛売りのおばさんから木村さんへ笛を買う。マーシー、笛吹きまくり、のりまくり。楽しい。

 外であわや毛皮を110ドルで買うところだったけど、思いとどまる。
 1日7本しかないバスが、目の前を行き過ぎかけたが、手を上げて(バスストップではない)、乗せてもらえ、1人30円ですんだ。ブラショフ?!の叫びが、車内で大受けしていた。

 17:30のブカレスト行きに乗るため、2人と別れる。良い旅を! 日本で会おうね!

 車内でねました。ブカレストの駅からメーター付きのTAXIにわざわざ乗ったのに、6050レバなのに前に1がついていると言ってきかぬ。「どこに!私には見えへん!」大げんか。

6/16(日)
 コンチネンタルホテルで、郵便を出してやるというので、それではとベルボーイに頼み「幾ら?」ときいたら「Mayby 5$」。何?!・・・「あんたの使い賃込みやね」と5$渡した。ホテルのTAXIは安全だから、インクルーズでペイして、送ってもらう。
 ドライバーに2$。TAXIからおろしてくれていると、何だかポーターが来て、カートに積み込んでいる。いらんよォ、そこまでやねんから。すると横から空港関係という風の作業服を着た奴が、「3000レバ」という。「ドルしかない」というと、じぁあ、あとでみたいな。まだプラハ行きがチェックインできなくて、中に入れず荷物を運べない。
 すると一人の作業服がやって来て、「1ドル」といので、ポーターに払った。そしたら、そいつがポーターに1ドルというのだ。何んで。ここ迄自分で運べる。頼んでへーん。私は昨日の6050の前に1がある騒ぎで頭に来ている、ブカレストに。ええかげんにせいよ。
 でも、そのポーターを見ていると気の毒で「じゃあ、プラハチェックインの時、荷物をベルトに乗せに来てね、といって1$渡した。来たらすごい。正直者だね。ブカレストで良い思い出だよ。
 しばらくして、お腹も空いたので、2Fのレストランへ。人の良さそうなおじさんが、「ノープロブレム」とか言って、注文を自分でさっさとしてくれた。サラダとパンとステーキが出てきて、おいしい。「Good!」と言って、喜んで食べる。コーラとミネラルウォーターと。
 さあ、食った。「ドルOK?」「OK、OK」そいで、勘定は何と24$。絶句。でも、もう、私は喧嘩する気力が出ず、お金を黙って払いました。こいつ、いくらポケットに入れるかなあ。それを思えば昨日のTAXIドライバーなんて可愛いものよね。

 下を見ると、あのポーターがプラハ行きの便のアナウンスの後、うろうろと私を捜し、いないので? という顔をしながら外に出ていった。
何て良い奴なんだ。善人だあんたは! 私は下へおり、外へ出て彼を呼ぶと、すぐ来てベルトに乗せてくれた。5$渡した。ねえ、お互いに感動ものだよ。あんたには訳分かんないだろうが。

 ここはチェックインをロビーでしない。治安が良くないのかな。ホテルへ行って、待てど暮らせど、案内がない。隣にいた 中国人のリーさんというアムに住む女性が2H程遅れると教えてくれた。何と言うこと! 仕方ない。

 10人近く若い中国人の男性を連れているので、「彼らは何?」ときくと仕事だという。皆で写真を撮って仲良くなった。荷物を持ってくれたので、とても助かった。

  プラハ についた時には私が最後だったので、彼等は居ず、でも、イミグレーション前で、チェコ航空の人が来てくれていたので、私は無事プラハの第一歩を踏み出すことができました。

6/17(月)
 プラハの朝です。もう目が何度覚めるやら。ヴィラベティはマリアというマダムがとても良い人。7から10時までの朝食も、ハム、チーズ、サラダ、卵、各種パン、ヨーグルト皆とてもおいしい。私はパンを1個食べ、黒パン2切れに残ったハム、サラダをはさんで、ヨーグルトを持ち、昼ごはんに当てました。
 さして、お茶を持ち、いよいよあこがれのプラハです。昨日迎えのチェコ航空の車から見ただけでもうプラハでした。美しかった。
 空港でチェンジマネーしていたので、 スカルカ の メトロ で、切符を1枚、10コルナX10買い、意気揚々と、いざ カレル橋 へ。美しい。美しすぎる。 モルダウ やで! 白鳥やんか。 プラハ城 やん、ああ、勿体ない。あのルーマニア、ブルガリアの土煙から着いた(いや、そけが悪いというのではない)プラハは別天地。しばらく勿体をつけカレル橋を渡らず、ぼーっとモルダウを眺める。ええなあ。ちょっと唇に熱の花が出てるけど、プラハやん!
 カレル橋を渡る時どきどきした。1H位かけて、ぶらぶら歩いて渡る。絵あり、楽あり、そして何と美しい塔の群れ。さんざん眺めて渡る。
 プラハ城へついでに登ることにして、22番のとラムに。うまいぐあいに北入り口から入り、15:00の門衛交替も見て、プラハ城からの市街の眺めもGood。黄金小路、カフカの家も見、辻楽のバイオリンも聞き(モルダウを弾いていた。もっと根性いれんかい)、城内の郵便局から、家へもtelしたし、さあ、アイスを食べながら帰ろう!  帰りにあまりの安さに血迷い、ボヘミアングラスを大量に別送した。パパごめんなさいませ。
 帰り、メトロの中で少し疲れたなーと思う。
 興奮してるんやろか。

※この夜から21日昼迄、熱と悪寒で寝込む。汗をびっしょりかいて、薬を飲み、ひたすら寝続ける。
 19日オペラのチケットあったが、とりあえず駅まで行った。頭クラクラ、体フラフラ。止めて帰った。2Weekの旅の疲れと、あの15日の寒さがこたえたのだと思う。
 18日の夜中、雷が鳴り、大雨が降る。この日より、プラハは寒さ続き。20日に日本へFAXを打ち、薬など送るよう依頼。パパからFAX。勇気が出る。

6/21(金)
 今日は相当良い。17日の夜から悪夢のように毎日体がつらかった。しかし、これも良いかと思う。マリアが広い部屋に移してくれた。もう3日朝食に行ってなかったし、気の毒に思ってくれている。
 元気を出して、 チェコフィルを聞きに行くぞ!
 旅程を変更して、すぐヘルシンキに行くことにしたので、旅券を買おうとチエドックへ行ったが、ちっとも係りが出て来ない。その間にバウチャーを見ると、ヘルシンキ−−イバロが7日になっているので、もう一度考え直そうとチェドックを出て、スタンプを買いに歩きかけると、道の向こう側のボヘミアングラスのウインドウを見ている後ろ姿に見覚えがある。あれはどうも門永氏ではないだろうか。いや、まさか。
 近づいて横顔を見ると、まさしく、その人。「え! いやあー」「おー」。ブルガリア、カザンルック以来。まさか、このチェコで会おうとは。奇遇。19:30まで少し時間があるので、カフェで話をする。
 ルーマニア、ハンガリーを経て、24日にはイギリスへ行くとのこと。明日がなんと71才の誕生日風邪薬を戴くことになり、20:30にホール前でと言うことにして分かれる。コンサートはいずれにしても1Hだけと思っていたので丁度いい。
  ドボルジャークホール は素晴らしかった。でも、 チェコフィル でなく、ブルフィル。何とも残念、お粗末。 1Hもいたくなかった。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲だかも技術は悪くないが音楽がならない。ピアノも、おーい、金返せ。
 門永氏の誕生祝いを市民広場前のレストランにて、店付きの、バイオリン、ベース、鉄琴、これが良かった。バイオリンもやけに陽気で、こっちを見ては笑ってる。私は今日のコンサートのプログラムを上に上げて見せ、落として見せた。笑って大喜び。でも、本当にあんたの方が良いよ。門永氏と乾杯。花売りが来たので、レストランのウエーターらと一緒に「ハッピーバースデー」を歌って、花束贈呈。人生はまか不思議なりですね。
 帰りも11:00になるので、メトロを使って帰ろうとすると、ホームで怪しげな奴らが目くばせ。さてはとわかったので、門永氏に向こうへ行きましょうと言うが、奴らはどんどん同じ所へ来る。
 とりあえず乗ったが、5−6人で組んでいて、一目で分かる。横の女性が気をつけるように行ってくれる。門永氏のカメラの上に、地図を広げる。小声で、私がかばう。次の駅で降りようとするのをおろさない。「どきなさい!」と言って2人でおりる。
 彼はリュックに三脚をのぞかせているし、カメラも見え見えだし、相当年配だし、宝の山が歩いているように見えるのだろう。
 ここでB線に乗り換えて、一人で帰らせるのが心残りだったが、もう12:00にはメトロがなくなるので分かれた。どうかご無事で。
 ホテルについて宿泊先の、ガルニにTELするがメッセージコールしかでない。何ちゅう・・・。
 風呂入ったると思って入った。暑いやつ。長くは入ってなかったけど、やはり、こたえた。昨夜も実は入って倒れかけた。

6/22(土)
 朝から雨。門永氏のホテルにTELするがやはりメッセージコールのみ。気になる。
 体の調子は良好。いろいろ整理して、洗濯もする。ちょっとつかれた。
  カールシュタイン城 が今日だけど、どうするかと思案。まあ、行くと言うことに、外に出ると、マリアが地下で仕事中。顔を見て出てきた。「今からカールシュタイン」というと「today?!」といって2人で顔をしかめあった。

6/23(日)
 寒い。大寒。今日、1日だけ筋向かいのマリアの友人のアパートで泊まる。すごく良い。でもとにかくプラハは、この4−5日寒いんだ。
 近くのスーパーマーケットも今日は休み。よおーし、とミュージウムまでメトロで買い物に。脱ぐ服も買い。食料も買い、ワインも買い、やっと日記も日数を取り戻した。これでお風呂に入って寝ます。

6/24(月)
 朝、ベティーに戻ると入口に日本人が。平賀さんという人で、2人でユダヤ人墓地へ行くことに。
 やっぱり、雨がよく降る。
 ピンスカヤ・シナゴーグ内に書かれた、7万人もの人達の名前に圧倒される。今日は日本人が多い。よく歩いたので、昼御飯を食べに入った。とてもおいしかった。2人で2千円位。私なんか伊勢エビ2匹分のカクテルを食べたんだぞ! 平賀嬢は日本でも、旅行費用を出すため、粗食だそうで、ビーフステーキを真剣に食べていた。
 このあと平賀がどうしても、あの船に乗りたいと言い。乗り場をさがしながら歩いたが大失敗。雨がめちゃひどくなり、船もおらず、カフェーで一休み。
 夕方マーケットで買い物をして、2人でビールとワインで乾杯。すごい、おいしかった。1300位の買い物。